空襲に備えて、どんな準備をしていたのですか。
市民は各自いつも防空(ぼうくう)頭巾(ずきん)・救急袋を用意していました。空襲警報のサイレンが鳴ると身につけて、縁の下や空き地に作られた防空(ぼうくう)壕(ごう)に避難しました。また、各家の前に防火用水や火たたきが用意されていました。各町内では神社や広い空き地に大きな防空(ぼうくう)壕(ごう)が作られていました。
B29はどこから飛んできたのですか。
日本からはるか南の太平洋上にあるマリアナ諸島の一つテニアン島の飛行場を離陸し、約7時間半かけて、125機が長岡の上空にやってきました。
なぜ、県下で長岡だけが空襲されたのですか。
米軍は昭和20年3月10日の東京大空襲以降、焼夷弾(しょういだん)で日本の都市をじゅうたん爆撃する方針に転換しました。人口の多い大都市からだんだん少ない地方都市へ攻撃したのです。また、長岡は県下で人口が2番目に多く、交通の中心地で、兵器を作る工場がたくさんあり、石油も産出するところだったからでした。
長岡より人口の多い新潟市がなぜ空襲されなかったのですか。
アメリカ軍は、昭和20年にはいると原子爆弾攻撃の実行計画を立案しました。その投下予定地として京都・広島・新潟・小倉を選び、4都市への焼夷弾(しょういだん)攻撃は差し止められたのです。
家を焼かれた人々はどうしたのですか。
親類や知人の家で間借りをしました。焼け跡に残っていた赤くさびたトタン板やわずかな材木を使って掘っ立て小屋を建てて住みました。『バラック小屋』ともいわれた大変粗末(そまつ)な家に住んだのです。冬など朝起きると部屋中に吹雪が入り込んでいたそうです。