空襲の史実と平和の尊さを後世へ 長岡戦災資料館

平和の尊さを伝えていく

長岡のまちが空襲を受けてから80年が過ぎました。
燃え上がる炎の中を逃げ惑い、血のにじむ思いで戦後
を生き抜いてきた空襲体験者は高齢化し市民の多くが
戦後生まれの世代となりました。
いま、豊かさと活気にあふれた長岡のまちで私たちは
平和をあたりまえのこととして暮らしています。
しかし、世界にはいまだに戦禍に苦しむ人々が絶えません。
こうしたことをよその国のことと考えずに、
地球市民として平和を願いながら、関心を寄せていくことが、
今を生きる私たちに求められています。
平成15年7月、長岡空襲の惨禍を記録・保存し、
伝えていくため、長岡戦災資料館を開設しました。
ここは、市民とともに長岡空襲を語り継いでいくための
資料館です。長岡空襲を体験した市民と、
戦争を知らずに育った戦後世代の市民とが、それぞれに
力を出し合い、平和のために一緒になって活動し、
次の世代に平和の尊さを伝えていきます。

母子像『懐(おも)い』 新潟県内唯一の空襲の惨状を風化させることなく、亡くなられた方々の御霊を慰め、恒久の平和を希求する思いを伝えようと、長岡空襲60年を機に建てられたものです。

母子像『懐(おも)い』 (制作者:堀田正)
新潟県内唯一の空襲の惨状を
風化させることなく、
亡くなられた方々の御霊を慰め、
恒久の平和を希求する思いを伝えようと、
長岡空襲60年を機に建てられたものです。

長岡空襲について

長岡空襲について

1945(昭和20)年7月20日
左近地内に1発の模擬原子爆弾が投下されました。
長岡に投下された初めての爆弾でした。そして8月1日の夜、豪雨のように降り注いだ焼夷弾は、長岡の市街地の約8割を焼き払いました。
よくある質問
Q.

空襲に備えて、どんな準備をしていたのですか。

A.

市民は各自いつも防空(ぼうくう)頭巾(ずきん)・救急袋を用意していました。空襲警報のサイレンが鳴ると身につけて、縁の下や空き地に作られた防空(ぼうくう)壕(ごう)に避難しました。また、各家の前に防火用水や火たたきが用意されていました。各町内では神社や広い空き地に大きな防空(ぼうくう)壕(ごう)が作られていました。

Q.

長岡より人口の多い新潟市がなぜ空襲されなかったのですか。

A.

アメリカ軍は、昭和20年にはいると原子爆弾攻撃の実行計画を立案しました。その投下予定地として京都・広島・新潟・小倉を選び、4都市への焼夷弾(しょういだん)攻撃は差し止められたのです。

Q.

家を焼かれた人々はどうしたのですか。

A.

親類や知人の家で間借りをしました。焼け跡に残っていた赤くさびたトタン板やわずかな材木を使って掘っ立て小屋を建てて住みました。『バラック小屋』ともいわれた大変粗末(そまつ)な家に住んだのです。冬など朝起きると部屋中に吹雪が入り込んでいたそうです。

施設紹介

~移転準備に伴い休館中です~
休館期間:令和7年12月15日(月)~令和8年5月
※閉館中も資料の貸し出しや語り部の派遣を行います。

所在地 〒940-0061 長岡市城内町2丁目6番地17

施設スケジュール