収蔵資料
| 収蔵品名 | 罹災證明書 |
|---|---|
| 資料番号 | 321 |
空襲直後の8月2日午前4時、長岡市は北越製紙本社(大手通2丁目)の建物を借用して、市役所の仮事務所を設置し、罹災証明書の発行などの救護活動に入りました。
罹災証明書は、空襲で被災した人であることを市長が証明した文書です。これを受け取ることによって、被災した市民は、炊き出しや救援物資の配給、鉄道の無賃輸送(8月6日まで実施)の対象になることができました。
罹災証明書からは、空襲後の市政の変遷も読み取ることができます。空襲直後(8月2日付)は行方不明だった鶴田義隆市長名で発行されていますが、殉職が確認されてからは「市長職務管掌」となります。
用紙もガリ版刷りの印刷や、新潟市役所の罹災証明書(8月3日付)が利用されており、物資の不足や空襲直後の混乱の中、発行事務が行われていたことがうかがわれます。
罹災証明書には、以降、田村文吉(昭和20年9月就任)、松田弘俊(昭和22年4月就任)の各市長の名前が見え、復興が進む中でも申請が継続されていたことがわかります。
長岡戦災資料館へ市民から寄贈された罹災証明書は19点です。空襲被災者は58,773人、空襲被災戸数は11,986戸とされ、まだまだ多くの罹災証明書が長岡市内に保存されていることが想定されます。今後の調査により、罹災証明書から長岡空襲の新たな歴史がわかってくるかもしれません。